1928年の「讀書子に寄す」

讀書子に寄す

岩波文󠄁庫發刊に際して

岩波茂雄

眞理は萬人によつて求められることを自ら欲し、藝術󠄁は萬人によつて愛されることを自ら望󠄅む。かつては民を愚昧ならしめるために學藝が最も狹き堂宇に閉鎖󠄁されたことがあつた。今や知識󠄂と美とを特權階級の獨占より奪ひ返󠄁すことはつねに進󠄁取的なる民衆󠄁の切實なる要󠄁求である。岩波文󠄁庫はこの要󠄁求に應じそれに勵まされて生れた。それは生命ある不朽の書を少數者︀の書齋と硏究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆󠄁に伍せしめるであらう。近󠄁時大量生產豫󠄂約出版の流︁行を見る。その廣告宣傳の狂態はしばらくも、後代にのこすと誇稱する全󠄁集がその編󠄁輯󠄁に萬全󠄁の用意をなしたるか。千古の典籍の飜譯企圖󠄃に敬虔󠄀の態度を缺かざりしか。更︀に分󠄁賣を許さず讀者︀を繫縛󠄁して數󠄄十册を强ふるがごとき、果してその揚言する學藝解放の良途󠄁ゆゑんなりや。吾人は天下の名士の聲に和してこれを推擧するに躊躇するものである。このときにあたつて、岩波書店は自己の責務の愈󠄅いよ〳〵重大なるを思ひ、從來の方針の徹底を期するため旣󠄁に十數󠄄年以前󠄁より志して來た計畫を愼重審議この際斷然實行することにした。吾人は範をかのレクラム文󠄁庫にとり、古今東西にわたつて文󠄁藝哲學社︀會科學自然科學等種類︀の如何いかんを問はず、いやしくも萬人の必讀すべき眞に古典的價値ある書を極めて簡易なる形式において逐󠄁次󠄁刊行し、あらゆる人間に須要󠄁なる生活向上の資󠄁料、生活批判󠄁の原理を提供せんと欲する。この文󠄁庫は豫󠄂約出版の方法を排したるが故に、讀者︀は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選󠄁擇することが出來る。携帶に便󠄁にして價格の低きを最主とするが故に、外觀を顧みざるも內容に至つては嚴選󠄁最も力を盡し從來の岩波出版物の特色をます〳〵發揮せしめようとする。この計畫たるや世間の一時の投機的なるものと異り、永遠の事業として吾人は微力を傾倒しあらゆる犠牲を忍󠄁んで今後永久に繼續發展せしめ、もつて文󠄁庫の使󠄁命を遺󠄁憾なく果さしめることを期する。藝術󠄁を愛し知識󠄂を求むる士の自ら進󠄁んでこの擧に參加し、希望󠄅と忠言とを寄せられることは吾人の熱望󠄅するところである。その性質上經濟的には最も困難︀多きこの事業に敢て當らんとする吾人の志を諒としてその達󠄁成︀のため世の讀書子とのうるはしき共同を期待する。

昭和二年七月

付記

  • 底本は『猶󠄁太人問題を論ず』(昭和3年、岩波書店)。
    • 副題の上下の「——」は無い。
  • ルビは引用者による。
  • 次に掲げる字は、次の字形で印刷されてゐる:
  • その他の字は、たいセレクターを使って、印刷と同等の字形を選択した。
  • このテキストは19271231日以前に発表されたため、アメリカ合衆国(推定サーバー所在地)においても、パブリック・ドメインにある。