刑法改正の話
6月13日、第208回国会閣法第57号が成立した。要旨は、
- 侮辱罪の法定刑の引き上げ
- 懲役と禁錮の廃止および拘禁刑の創設
- 執行猶予を再度言ひ渡すことのできる要件の緩和
- 執行猶予の効力継続期間の導入
- 被害者等の心情等の考慮に関する規定の整備
- 受刑者の処遇に関する規定の整備
- 社会復帰支援に関する規定の整備
などである。侮辱罪の厳罰化だけではない。
この法律は6月17日に公布された[1]ので、侮辱罪の法定刑の引き上げ(改正法1条)は7月7日に施行される。改正法1条の条文は次の通り:
第一条 刑法(明治四十年法律第四十五号)の一部を次のように改正する。
第二百三十一条中「拘留又は科料」を「一年以下の懲役若しくは禁錮若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料」に改める。
法定刑の引き上げには、次のやうな副作用もある。まづ、時効の期間が長くなる。公訴時効の期間は、これまでは1年だったものが3年になる[2]。これによって、侮辱行為[3]を行ふ人達の振る舞ひが変はらなくても、犯罪捜査や起訴がしやすくなる。刑の時効の期間も刑によっては長くなる。現行法では1年だが、改正後は、罰金以上の刑に処せられた場合、3年以上となる[4]
教唆と幇助が処罰できるやうにもなる。刑法64条は
(教唆及び幇助の処罰の制限)
第六十四条 拘留又は科料のみに処すべき罪の教唆者及び従犯は、特別の規定がなければ、罰しない。
と定めてをり、現行法では、侮辱罪の教唆者や従犯は処罰されない。法定刑に罰金以上の刑が加はることで、この制限を外れることになる。
逮捕・勾留要件も緩和される。刑事訴訟法199条1項と60条3項は、
第百九十九条 検察官、検察事務官又は司法警察職員は、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは、裁判官のあらかじめ発する逮捕状により、これを逮捕することができる。ただし、三十万円(刑法、暴力行為等処罰に関する法律及び経済関係罰則の整備に関する法律の罪以外の罪については、当分の間、二万円)以下の罰金、拘留又は科料に当たる罪については、被疑者が定まつた住居を有しない場合又は正当な理由がなく前条の規定による出頭の求めに応じない場合に限る。
③ 三十万円(刑法、暴力行為等処罰に関する法律(大正十五年法律第六十号)及び経済関係罰則の整備に関する法律(昭和十九年法律第四号)の罪以外の罪については、当分の間、二万円)以下の罰金、拘留又は科料に当たる事件については、被告人が定まつた住居を有しない場合に限り、第一項の規定を適用する。
と定めてゐる。
さらに、刑の言ひ渡しが確定した場合、一部の刑に処せられた要件に引っかゝるやうになる。例へば、罰金に処せられると、刑の執行猶予が取り消されることがあり[5]、禁錮以上の刑に処せられると、刑の執行猶予が取り消され[6]、罰金以上の刑に処せられると、仮釈放の処分が取り消されることがあり[7]、刑の消滅が中断される[8]。
かういふ副次的な効果を踏まへると、見掛け以上の影響がある改正だと思ふ。是非はともかく、いはゆる見せしめ逮捕も行はれるだらう。
表現の自由については、法律上はすでに侵害されてゐると思ってゐる。言論の自由は民主主義の前提で、真実たる事実を摘示して官僚や政策を批判することは市民の当然の権利だが、刑法231条は
(侮辱)
第二百三十一条 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。
と定めてをり、事実を摘示しても処罰されうるやうな感じがする。もっとも、刑法の一部を改正する法律(平成7年法律第91号)による改正前の条文は
第二百三十一條 事實ヲ摘示セスト雖モ公󠄁然人ヲ侮辱シタル者︀ハ拘留又󠄂ハ科料ニ處ス
であって、雖もといふ語はかつては確定条件にしか使はれなかったから、もしかすると、事実を摘示しなかったときに適用するものとして制定されたのかもしれない[9]。
判例では、名誉毀損罪と侮辱罪とは事実摘示の有無によって区別される[10]。公共性、公益性、および真実性/真実相当性[11]を備へた名誉毀損行為は処罰されない[12]から、少なくとも裁判所では、民主主義のために必要な言論の自由は、侵害されてゐないと言ってよいと思ふ。
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刑事訴訟法250条2項。 ↩︎
侮辱罪の構成要件に該当する行為。つまり、事実を摘示せず、公然と人を侮辱する行為。 ↩︎
刑法32条。 ↩︎
刑法26条の2、26条の3、27条の5、27条の6。 ↩︎
刑法26条、26条の3、27条の4、27条の6。 ↩︎
刑法29条。 ↩︎
刑法34条の2。 ↩︎
さらに遡ると、讒謗律1条では、
第一條
凡ソ事實ノ有無ヲ論セス人ノ榮譽ヲ害スヘキノ行事ヲ擿發公󠄁布スル者︀之ヲ讒毀トス人ノ行事ヲ擧ルニ非ス𬼀惡名ヲ以テ人ニ加ヘ公󠄁布スル者︀之ヲ誹謗トス著作文󠄁書若クハ畵圖肖󠄁像ヲ用ヒ展觀シ若クハ發賣シ若クハ貼示𬼀人ヲ讒毀シ若クハ誹謗スル者︀ハ下ノ條別ニ從テ罪ヲ科ス
とされた。𬼀はシテの合字。「用ヒ」は原文通り。人の行事を挙げるに非ずして、つまり、事実を摘示せずに、悪名を以て人に加へ、公布する者を誹謗とした。 ↩︎
例へば、最高裁判所昭和58年(あ)第960号同年11月1日第一小法廷決定。現在もこの基準は変はってゐないやうに見受けられるが、平成7年改正以前は、刑法231条は「事實ヲ摘示セスト雖モ——」とされてをり、確定条件と解するのも自然だったので、こゝで昭和期の判例を挙げるのは不適当だった。 ↩︎真実相当性について、最高裁判所昭和41年(あ)第2472号同44年6月25日大法廷判決では、
しかし、刑法二三〇条ノ二の規定は、人格権としての個人の名誉の保護と、憲法二一条による正当な言論の保障との調和をはかつたものというべきであり、これら両者間の調和と均衡を考慮するならば、たとい刑法二三〇条ノ二第一項にいう事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である
とされた。 ↩︎
刑法230条の2。 ↩︎